介護福祉士試験の過去問に出てくる人物
糸賀一雄—知的障害児施設の近江学園—「この子らを世の光に」
留岡幸助—感化院—北海道家庭学校の創始者
山室軍平—救世軍の創設—廃娼運動や禁酒運動
石井十次—「岡山孤児院」を創設
石井亮一—「滝乃川学園」を創設
生江孝之—「社会事業の父」— 『社会事業綱領』の著書
笠井信一—民生委員制度のもと—「済世顧問制度」を創設
横山源之助—社会調査—『日本之下層社会』
井上友一—子供を対象とした感化救済事業を推進
糸賀一雄
問題
糸賀一雄は近江学園の設立者であり、「この子 らを世の光に」と唱えた言葉は有名である。
糸賀一雄(いとが かずお、1914年3月29日 – 1968年9月18日)は、日本の社会福祉の実践家である。知的障害のある子どもたちの福祉と教育に一生を捧げた。日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られ、「社会福祉の父」とも呼ばれる。その思想を自身が語ったものとして書籍『福祉の思想』(NHK出版)がある。
糸賀一雄—知的障害児施設の近江学園—「この子らを世の光に」
留岡幸助
問題
留岡幸助は日本の社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設)教育を実践。北海道家庭学校の創始者として知られる。
留岡幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年3月4日) – 1934年(昭和9年)2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。東京家庭学校、北海道家庭学校の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。
留岡幸助—感化院—北海道家庭学校の創始者
山室軍平
問題
山室軍平は救世軍の創設にかかわり,廃娼運動や禁酒運動などの活動に貢献した。
山室軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日戸籍上は8月20日) – 1940年(昭和15年)3月13日)は日本の宗教家。説教者。日本人初の救世軍士官[2](=牧師)で日本人初の日本軍国司令官(「日本軍国初代司令官」ではない[3])。最終階級は中将。岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。
山室軍平—救世軍の創設—廃娼運動や禁酒運動
石井十次 石井亮一
問題
石井十次は日本で最初の「岡山孤児院」を創設して、生涯を孤児救済に捧げた。
また石井亮一は日本で最初の障害児施設である「滝乃川学園」を創設した。
石井十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日(慶応元年4月11日) – 1914年(大正3年)1月30日)は、明治期の慈善事業家で、岡山孤児院を創設した人物である。その功績から、「児童福祉の父」と言われる。アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。
彼は岡山で医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であったが、ある孤児を引き取ったことを経緯に、信仰的覚醒から孤児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして英国のキリスト者のジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して、生涯を孤児救済に捧げた。岡山孤児院はすでに存在しないが、その流れをくむ石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が、各種の福祉活動をおこなっている。
石井十次—「岡山孤児院」を創設
石井亮一(いしい りょういち、慶応3年5月25日(1867年6月27日) – 昭和12年(1937年)6月14日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての心理学者・教育学者・社会事業家。日本における知的障害者福祉・教育の創始者であり、社会福祉法人滝乃川学園、公益財団法人日本知的障害者福祉協会の創設者である。日本の「知的障害者教育・福祉の父」と呼ばれ、日本のみならず世界的に有名である。
石井亮一—「滝乃川学園」を創設
生江孝之
問題
生江孝之は「社会事業の父」とよばれている。 『社会事業綱領』の著書がある。
生江孝之(なまえ たかゆき、1867年12月7日(慶応3年11月12日) – 1957年(昭和32年)7月31日)は、日本の事業家、宗教家、大学教授。「昭和社会事業史への証言」(吉田久一・一番ヶ瀬泰子著)において「日本社会事業の父」と称されたとの記述がある。
生江孝之—「社会事業の父」— 『社会事業綱領』の著書
笠井信一
問題
岡山県知事の笠井信一は現在の民生委員制度の基礎となった「済世顧問制度」を創設した。
済世顧問制度(さいせいこもんせいど)は、地域の貧民の相談にのる防貧制度。1917年(大正6年)5月、当事の岡山県知事笠井信一が県内の貧困者の実情に鑑みてドイツのエルバーフェルト市の救貧委員制度、エルバーフェルト・システム(英語版)を参考に作ったもの。今日の民生委員の先駆のようなものである
笠井信一—民生委員制度のもと—「済世顧問制度」を創設
横山源之助
問題
横山源之助は明治期に活躍したジャーナリストで 代表作「日本の下層社会」という著書がある。
横山源之助(よこやま げんのすけ、1871年4月10日(明治4年2月2日) – 1915年(大正4年)6月3日)は、1894年、毎日新聞社(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)に記者として入社。下層社会のルポルタージュを中心に活動をするようになる。この頃、下層社会の女性の救済を訴える立場から、晩年の樋口一葉のもとを何度か訪ね、親交を結んだ。1896年から翌年にかけて、桐生足利、郷里魚津、阪神地方の調査を実施。帰京後、労働組合期成会に関与して、高野房太郎、片山潜を知る。1899年、『日本之下層社会』、『内地雑居後之日本』を相次いで刊行。
横山源之助—社会調査—『日本之下層社会』
井上友一
問題
井上友一は内務官僚として感化救済事業を推進した。
井上友一(いのうえ ともいち、明治4年4月10日(1871年5月28日) – 大正8年(1919年)6月12日)は、東京府知事を務めた、地方行政を専門とした内務官僚。号は明府。弟に、陸軍中将・井上一次。救済事業の精神は、救貧より防貧、さらに教化が重要であると考え、感化救済事業や地方改良運動などを推進した。
井上友一—子供を対象とした感化救済事業を推進
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